皆様こんにちは、国際交流団体未来の上田です。

6月のメルマガ以来の配信になりますが、季節は秋本番になりいかがお過ごしですか。このたび皆様からのご意見を反映して内容を改めることに致しました。自画自賛の活動報告は最小限にして、日本語教育と国際交流のNPOですからその内容に相応しい投稿を中心に掲載ご紹介していきたいと思います。国際交流団体未来とご縁のある人々を繋ぐ「エッセーリレー」としてスタートしてまいります。最後までお付き合いのほどよろしくお願い致します。

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●秋季号の投稿テーマ「ドイツ人との交流」

Facebookにも投稿致しましたが、昨年末から日本語支援活動(Skypeでマンツーマンコミュニケーション)として、ドイツブレーメン市の電気エンジニア〝ヘニング シェプカー〝さんとは週一回の日本語レッスンをしてきました。9月には日本語を勉強するため来日、伊丹市のウークリーマンションに滞在し、日常会話や日本文化体験、国際交流を経験し帰国されました。彼は我がNPOの会員さんの紹介なのですが、会員さんが昔ドイツでの研究会で知り合った女医さんの息子です。国際交流は一世代だけでなくその子供や家族もつながっていくことは貴重であり、国際交流が世代を超えることに感動するものです。

前置きはこれぐらいにして、私の病友(とある病院で知り合った)で元英語教師のニックネーム〝ミチ〝さんから、ドイツ人との交流エッセイについて投稿をいただきました。以下ご紹介します。

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●「ドイツ人との交流は私にとって貴重な宝物となった」

1984年に日本の日光ユースホステルですばらしいミュンヘン出身のドイツ人カップル(マリアネ・ハウプトマンとウオルター・ハウプトマン)に出会った。会話のきっかけは、彼女が私にユースホステルでベルギーのチョコレートを休憩時に差し出してくれたことだった。味は最高だった。また、その日は多くの外国人がユースに泊まっていて、その夜はささやかな花火大会をすることになった。私はマリアネのグループに参加した。

ここで少し、彼女の生い立ちについてお話したい。彼女の父は昔、金沢第四高等学校のドイツ語の教師だった。ユースホステルでマリアネは、自分たちが第二次世界大戦前に住んでいた金沢の自分のルーツを探したいと言った。 マリアネとご主人のウオルターは1週間後の週末の土曜日に大阪へ来る予定だという。私は、当時、大阪の吹田市のアパートに住んでいた。彼女から電話があれば、何とかお手伝いしたいと考えていた。彼女から電話がある予定の土曜日に一度、アパートの管理人のおばあさんから「ドイツ人から電話があったが、言葉がわからなかった」とメッセージをもらった。私は当時、固定電話がなく、特別の場合は、アパートの管理人さんの電話を呼び出し電話として利用した。ほんの20分だけ買い物のためにアパートを留守にしたが、運悪くその時に電話がドイツ人カップルからあったのだ。私から彼女に連絡することは不可能(当時は誰も携帯電話を所持ていなかった)だったので私は後悔したが、何十年も経て、彼女の弟さんのルーツを探すお手伝いができるとは思っても見なかった。

私が病床のマリアネを訪問したとき、私がいつも感動したことは、彼女の見舞客がよくお花をもってくるのだが、彼女はその花の絵を短時間に上手に仕上げ、その絵を訪問客が気に入れば、即座にその絵をプレゼントする姿だった。マリアネの家系はプロの音楽家やギムナジウム(卒業生の多くが大学に進学する高等学校)の教師、大学教授などが多かった。彼女の父も終戦後はドイツの大学で教鞭をとった。ドイツ人は家族で音楽の楽器を演奏する人が多い。彼女の母もピアノを幼少の頃から習っていたが、マリアネはお嬢さんのように育てられることの反発を感じていたので、幼少の頃ピアノを習うのは拒否していたが、後年になってやはり、音楽の楽器が弾けると魅力があると思い、ブロックフルーテ(縦笛)を習った。彼女の見舞い客が音楽ができると、みんなで楽しく演奏するのだ。私はハーモニカを吹くことがあったが、その時に演奏したチョウチョウの歌や、小学校で習った多くの曲がドイツの音楽がほとんどだったとマリアネから聞かされ驚いた。でもマリアネの母は日本の赤とんぼなどの歌をこよなく愛していた。母親は日本語は話せなかったが、日本語の歌の歌詞はみごとだった。私自身、直接、マリアネの母が歌う日本語の歌を聴いたがとても上手だった。

私は、音楽は文字通り世界共通語で世界平和の貢献をしていると直接感じた。自分を家族の一員として受け入れてくれたマリアネと彼女の家族から本当に人間はみんな同じだなあと毎日の生活の中で感じるのだった。それまで何年もアメリカで生活をしてきたが、このドイツ人たちと出会ったことは、アメリカで英語を学んだ以上に私にとってインパクトが強かった。彼女たちと知り合いになったことがこの上なく嬉しかった。バージニア州立大学(アメリカ)で卒業間近に、マリアネがガンで苦しんでいることを知った。私は母をガンでなくしているのでひとごとではなかった。余命は1年程だった。日本へ帰国する前にミュンヘンに寄って彼女の見舞いをすることにした。私の仕事は、毎朝、家の前の雪かきをすること、ミルクを買いに行くこと、自然の鳥の餌を用意すること、買い物に行くことなどであった。2ヶ月ドイツに住むことになり、簡単なドイツ語も話せるようなっていた。夢中でドイツ人との生活に浸っていたことがいい影響を与えたように思える。実際にマリアネは頑張って、その後さらに1年以上長生きした。亡くなられたときに彼女が友人たちに書いたドイツ語の手紙を私の家に送られてきた。昇天したのだと思った。

平成25年10月、彼女の弟さん(ウリ・ザイラー)が奥様(ブリギッテ・ザイラー)と共に初めて日本に来られた。ウリは日本の信州生まれだが、第二次大戦後にすぐアメリカの要請でドイツに帰国させられた。帰国の途中で1歳の誕生日を迎えたようである。訪日はそれ以来ということで、初めて日本を訪れるのと変わらないということだった。私は彼と奥さんを石川県の輪島、大阪、奈良、広島と案内した。とても喜んでくれた。 マリアネとウオーターが日本を訪問したとき、私はあまり力になれなかった。今回は少しでもその分、お世話になったお礼ができたのではと思う。私は、アメリカよりドイツの文化がとても好きで、機会があればまたドイツへ行きたい。ドイツに自分の大切な友人がいることは私にとって、貴重な財産である。 現在、私は長年苦しんできた肝炎の治療に取り組んでいる。ガンに苦しみながらも前向きにいつも生きてきたマリアネのことを思い出すたび、私は励まされる。

2014年9月29日投稿

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最後までお読みいただきありがとうございました。次回は日本語教師として活躍されている宝塚市在住のサポーターの方のエッセイをご紹介致します。投稿についてまたNPOについての様々なご意見を承りたいと思います。ご遠慮なく返信メールでお送りください。

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